本屋で、「運気を磨く 心を浄化する三つの技法」
という、いかにも「自己啓発本」という感のタイトルの本があった。
作者は田坂広志さん
「あり?このオジサンってクローズアップ現代に科学の専門家として登場していた人じゃなかったっけ?そんな人がこの手の本を書くの?」
なんて思い、つい手に取った。
「あ~、こんな感じの路線の本も出している人だったんだ~」
といくつかの本やら動画なんかも見てみる。
さて、ちょっと胡散臭くなるがお付き合いを
私がここで、
「自分は大いなるものに導かれていると信じることができるか?」
などということを言い出したら、どう思うのかしら?
「あら?そっち方向にいったの?」なんて、
ちょっと距離を置こうか・・・なんて思うかしら(笑)
「大いなるもの~」は田坂氏の主張する一つなのだけど、
平常時の心理でそういうセリフを聴いたらちょっと警戒するかもしれない。
いわゆる、「神」とか「仏」とか「天」とか・・・
そういうものって信じます?
・・・で、
この「信じる」ということに対して展開(神様がからむ)
などによっては拒否反応もあるかもしれないが、
この「信」という言葉自体はよく使っている。
「信念」「信頼」「信用」「自信」「信仰」などなど・・
・・・で、この「信じる」って言葉に対して、
そもそも信じるとはなんぞや?
ということをお互いに整えないで話をするから
ややこしくなったりしているところもあると思う。
・・・で、
田坂氏の講演の中で「あ~確かにな」と思ったのが
以下、講演内容より抜粋
「例えば、『大いなるなにか』って、その存在を証明できるのですか?といったって、証明できるわけないんです。そもそも『信じる』というのは他の誰かが証明してくれるから信じるというのは「信」とは呼ばないのです。誰も証明する人はいない、だけれども無条件に自分は信じる。それを「信」というのです。なぜそれを信じるのか?と聞かれれば、『それを信じることが良き人生を生きられる、そう思っているからだ』そういうものを信念と呼ぶのです」
というのがあった。
私は、これを聞いて
「お~!そういうことか!ようやく合点がいった!」
となった。
先に言っておきますと、
これを読んでいる皆さんに
「こうあるべきだ!」と押し付けるつもりは毛頭ありませんから。
ただ、私の人生経験の中で腑に落ちて救われた。
私の人生では他者からみて
「なぜあの人を信じるのですか?」というのが多い。
例えば私の人生に甚大な影響を与えてくれた
中学野球部の怨師(ひょっとして他人事のように読んでそうだけど)
私の中学野球の顧問の先生はけっこうな過激派な先生であるがゆえ、
怨んでいる部員も多かった。
もちろん
先生に面と向かって言える人間は居なかったから名監督ということになってはいるが、「イカレている」ところも多かった。
今の歳になったからというわけではなく、
やっている時点で「こりゃイカレテる」と思っていた。
ただ、私はその「イカレ具合」に私の潜在的な右翼的思想が重なって、
言葉どおり無条件に信じた。陶酔というか・・・
あの頃、顧問の先生に突撃してこい!と言われたら、大概のことはやったと思う。
だから、この顧問が理不尽にキレまくってメチャクチャにした後の後始末を主将の私に全部押し付けてトンずらされても、「こういうもんだ」と耐えた。
考えたら、野球の時の感情のままのキレっぷりは
「あ~この先生の感情にウソはないということは信じられる」
というものかもしれない。
屁理屈だけど、
当時だって、一応大人である教員が中学生のやることに対して
普通はオブラートに包むとか、自分の感情は抑えて、
「仮面」をつけて接するわけじゃないですか。
事実、その顧問だって、一般生徒に対しては、
そらも~気持ち悪いくらいの「仮面」をつけて接しているのを見ていたわけで、
「あ~大人って相手によって嘘ついてんだな」ということを学ぶわけで。
それなら、感情むき出しに来てくれたほうが、
大変だけどシンプルな付き合いだったと解釈するようにする。
最近は、「仮面大人」との付き合いしかしていない若者が多いだろうから、
社会に出て「そりゃ苦労するよ」といつも思う。
この「解釈力」も田坂さんがよく出すキーワードだ。
今思い出して笑ってしまうのが、
当時、顧問のやり方についていけないと不満を持った
後輩の家庭に呼ばれ、
その親からこう詰問された。(私、中2でっせ 笑)
「あの先生のいったいなにがスゴイんですか?メチャクチャじゃないですか!」
「なんで、アイザワさんはあの先生を信じられるのですか?」
・・・と、
とてもごもっともな疑問であった(笑)
「う~ん、たしかにおっしゃる通りです」
と、私は思った。
「そんな合理的な理由なんかあるわけね~だろ、なんなら、アンタより俺の方が文句は沢山あるよ!でも、その不条理の中に身を置いて、「他の生徒と俺は違うんだ!」というささやかな、でも中学生男子にとっては重要なプライドと、あとはもし部を辞めたとしたら、そのあとの学校生活の惨めさの恐怖との戦いでやっているのですよ」
などと、中2の私が説明できたわけはない(笑)
現実は
「いや~、ま~、その~」などと、
なぜか謝罪風味な応対で、なんとか凌いだ。
まぁ、私がその子を部に誘ったということもあるもので・・・
結局辞めてしまった。悪いことをした。
後日、それを報告に行くとアッサリと
「俺はやってやってんだ、知らん」と一蹴された。
少しは「お~それはすまなかったな。ご苦労さん」
くらい言われるかと期待した私がまだまだ甘かった(笑)
「ヒデ~」と思ったが、「さすがだ」とも思った。
私はこの顧問の先生に人間性は求めていない、
多分、常識的な先生だったら私は辞めてる(笑)
求めていたのは『野球への狂気』であった(あぶね~思想 笑)
もちろん、この顧問の先生が
「有名高校とつながっている、進路を面倒見てくれる」
とかいう
「ちゃんとした理由?」で頑張る人もいたけど、私はそういうのは全くなかった。
長くなったが、
「信じる」
とかは他者に説明できるものじゃないからオリジナルなんですよね。
というか、
「あ~、お金になるからやっているのですね」
なんて、
相手に簡単に納得されるようなことばかりで
埋め尽くされた人生じゃしょうがね~だろと(笑)
「自分でもなんでこんなにやっているのか、よくわかんね~けど、やってんだよ」
ってのが信念なんですかね(笑)
その感覚はそのあとの人生もずっとそうで
「この人は信じられる」
「この人はちょっと信じられない」
というのも、
何かしてもらえる(例えば就職を面倒みてくれるとか)なんてので付いていったことはまずない。
けっこうそういう人いるけど、
そんなんじゃ、マトモな会話もできないような気がするけども。
だから、割と気持ちよくお話をさせてもらってきたように思う。
大学のゼミの先生や、大学院の教授、そして部の先輩など。
考えたら、大学院に行ったのだって高校の先輩で柔道部の上水さん(現在東海大学柔道部監督)に「大学院は大人になるぞ」と、たまたま会った時の雑談で言われ、
「上水さんが言うなら間違いない」と信じて進学した。単純なもんで。
私は「なんでそれをやるのですか?」と言われて、
聞いてきた相手に納得できる答えを出せないものが多い。
その時に聞いてきた相手が期待している答えは、
「それがお金になるのか?」
「資格になるのか?」
「評価になるのか?」なんてなものである。
すべて他者による証明を頼りにしている。
ただ私は
「やったほうが面白いから」とか
「楽しそうだから」とか
「やったほうがよさそうだから」
などというレベルの答えになってしまう。
なかなか伝わらない(笑)
なんだか、
自分で説明しようとすればするほど、
相手に冷ややかな目をされていくのを感じる。
自分でも、
「なんだか自分って幼稚なんかな?」
などと思ったりするものの、
なぜか止めることができないでいた。
そうか、
他人に説明できないけども、
他人に評価してもらえなくても止められないものは、
もういい歳なんだし、
これからは「信念でやってます」っていえばいいのかな?
なんて思った。
う~ん、恥ずかしい(笑)
ただ、たまに信念のある人と会話するとけっこう弾む。
全然、力んだ会話じゃないですよ。
「あら、あなたもけっこう幼稚なのね・・・と 笑」
そういや学生時代のオーダーしたミットには「信念」って刺繍したな(笑)
考えたら、「自信」だって、誰かに証明してもらうものじゃないですよね。
いや、誰かに証明してもらってついた自信って、
すぐに消えますよね。あれ、なんなんですかね(笑)
すいません長々と(笑)
嬉しい説明に出会えて、整理できないままに書いてしまいました。
考えたら、
学生さんに「自分を信じてもらえるか?」というのも、
これまたそっちのオリジナルなので、
どうしようもないってことなんですよね(汗)
それを掴めたという意味でも嬉しかったのです。
今まで「なんとか信じてもらおう」ともがいていたな~(笑)
まぁ、アタマで分ると肚(ハラ)で分るは違いますものね。
ようやくハラで分りました。