大阪の高校野球で今話題なのが、監督不在で勝ち進んで近畿大会に出場するところまでこぎつけたチームのことである。
監督代行を務めている校長先生の言葉によれば「子どもたちが互いの気持ちを尊重しながらやっている」ということらしい。
こういう出来事をみると、
「野球の監督ってなんなんだ?下手に監督がいるほうがかえって良くないんじゃないか?」
なんて議論が居酒屋では楽しい(笑)
そんな話から中学の監督の悪口でも言い出せば私だって話は止まらない(笑)
ところが、この事態をもし当事者になったとして想像してみるとこれはこの先の困難を考えてしまう。
そもそもなぜこんな事態になったかといえば部内の上下関係による暴力事件があったからである。
なんてったって、夏の大会がアウトになるくらいの出来事であった。
さて・・・・
野球部の上級生による「ご指導」の伝統といいますのはナカナカ厄介なものである。
野球をやっている人間は礼儀正しいなんていうのもこれらの伝統に支えられている面もあるというのも事実。
野球というスポーツはうまくなっていくにつれて性格が悪くなるというか、人の癖を盗んだり、弱点を突く、裏をかく、なんなら野次を飛ばして相手を潰すような発想も出てくる。
(それにしてもホームのクロスプレーはなんとかならないんですかね)
そんな世界でやっていれば「やるほうもやられるほうも」それなりに免疫力といいますか逞しくなってくる。
しかも、上位高校ともなれば「ここで一発俺の人生を切り開いてやるわい!」と本人のみならず親族一同まで鼻息を荒くしております。
そんな状況のなかでなりゆきとはいえ「自主性を尊重して・・・」
とやったら意外に勝ち進んでしまった!
これは厄介だと思う・・・
あくまで私の勝手な推測だが、今はとにかく無心でチーム一丸となって目の前の試合に取り組んでいる。
それが結果的にうまくいった。
本来ならばこの状態をいかに作るかが指導者の腕の見せ所なのだが、今回は先輩たちのあまりにも高すぎた代償のおかげで絶妙の結果オーライとなった。
強烈な束縛からの解放というのは即効性と爆発力はある。
しかし、長続きしない。
それはプロでもあった。
「自主性を重んじる方針」の監督に変わった途端にいきなり優勝したチームも何回かある。
しかし、長続きしない。
高校野球に話を戻す。
ありがたい「ご指導」を受けた時、1年生たちは決まってこう考える
「俺たちの時にはこういうの止めような!」
なのになぜ止まらないか?
新しい1年生が入ります。
こっち(先輩)は「ああいう嫌な思いはさせないように、優しくしてあげてる」と思っています。
しかし、1年生のほうは「こういうもんなんだ」と思って生活しています。
こっちは「ホントは儀式があるのに優しくしてあげているんだからもっと感謝の意を示せ」と思っています。
しかし、1年生は「それが普通」と思ってふるまいます。
こっちは段々とイライラしてきます。
しかし1年生は気づきません。
「やっぱりやるしかね~だろ」・・・・となります(笑)
さ~、今は目の前に試合があるからいいが、一息つくこの冬の過ごし方は難しい・・・
早く監督決めてあげてほしいと思う。
自主性尊重でいけるにはお互いに相当なインテリジェンスがなかったら不可能。
(そんなの大人だって困難!)
そんなことができるくらいならそもそもこんな問題は起きない。
でも、この状態の監督引き受けるのは大変なのは間違いない。
選手側(保護者および世論)は監督がいないでやる野球の味を覚えてしまった・・・
しかし、今は団結してるからいいか・・・などとのんびりしてたら、次の1年生が入って来たときにややこしくなる。
とにかく、絶対権力としての監督の存在は野球においては絶対に必要。
誰かが絶対の悪役をやってやらんと・・・
「アラ○の春」みたいにならないことを祈る・・・
それにしても、3年生の気持ちを思うと・・・
こっちのほうがよっぽどドキュメントだ
写真は苦悩しているフリして腹筋トレをしている某組員・・・これも野球人の得意技