kokokaramakuruの日記

野球 金魚 競輪少々 思いついたことをビビりながら書くブログ

昨今の体罰の話題について


有名高校の指導者が辞任したニュースが流れた・・・といったところで

どの話?というくらい話題の数が多い体罰問題」

今回はこの問題について私なりに思うこと

当たり前だが、この手の問題は殴ったり直接指導をした指導者が処分される。

殴るのはよくない・・・そりゃそうだ誰だってそう思っている。

この手の議論で話題になるテーマは、「どの程度がいいの悪いの」だの「指導力が不足してるから」だの「愛のムチは是か非か」という話題になって、まぁ難しい顔して右に行ったり左にいったりする議論をしながら字数を埋めたり、時間を討論しておしまいとなるのが通例である。そりゃそうだ、当事者じゃなければ答えなんかね~もん。


結果として、現在の指導者はそんな議論すら耳を傾けずに猪突猛進(もう少ないが)するか、諦めて指導しないか・・・まぁ2択にするわけにもいかないのでその間をとって可もなく不可もない指導を余儀なくされている。

さて、私は今回述べたいのは当事者じゃない人の話である。

いわゆる暴力教師・・・などというと誤解を招くが、エネルギーがあって生活指導の主任を任されるような教師というか指導者のおかげで助かっている人はいないのか?という視点である。

そういう存在がいてくれたからこそ、自分は自分の仕事をやってりゃいいということになってはいまいか?
そういう存在がいるからこそなんとなく組織の形を保てているという側面はありはしないか?

「いや私はなにもしてないのだから悪くないでしょ」という位置の人よ・・・
その存在がいたから何もしなくてもよかったのであって、居なかったら誰かが「秩序の番人」みたいなことしなければならなかったのではあるまいか?

「いや~おっかなくて言えなかった」という証言にしたって裏を返せば
「言わないで、そのままその人にやっといてもらったほうがラクだった」なんてことはないのだろうか?


いや、これ何もだから体罰容認というわけではないですよ逆に指導が分担されておらず
「見捨てないでなんとかせねば」とか「立て直さねば」と力んだ指導者が孤立しているからこそ起きている事態もかなりあるのではないかと思っている

確かに実際に「よくもそんなに人のこと殴れますね」という人はいることはいる

私が中学生の頃などは、
「あの有名高校の監督は体育館の端から端まで殴って進んでいるらしいぞ」などと中学の監督が話してくれたのだが、その時の監督の顔が
だから俺も実践しよう」みたいなノリに見えて「ヒエ~勘弁して~」と思ったものだが、そういうのはここでは別枠としたい。


こんな問題は、個別の事案それぞれでケースが全く違うので、
といって「いろいろありますわな~」などと言っていてもちっとも進まないので取り敢えず私の拙い経験から感じるこの手の議論の違和感を述べる。

私は高校野球部時代に寮の「説教隊長」という任を授かっていた。
これは2年生が春に新入生に対して行う説教という名の教育時間のリーダーである。

なぜ、こんなに金魚を愛するような優しい私がその任を授かったかというと、私の先輩のその隊長が大変に指導に熱心というか説教がお好きな方で、その熱心さのおかげで当時私たち1年生はその先輩の「暗殺計画」まで立ち上がるほどであった。
暗殺しても正当防衛になるのではないか?などとマジメに議論するほどであった(笑)「まず食堂のフォークで刺して・・・」などとマジメに語っていたのであった(笑)
結局その暗殺計画は「誰がやるのか?」という実行案作成の段階になって「お前が行ったら俺もつづくよ」という連中ばかりでそれもそもそも信用できない輩の集団なのがこの手の野球部員であるから、結局「お前やれよ」のなすりつけあいになり、先頭を切るものが決まらずに実行されることはなかった(笑)
結局は、その先輩のカップラーメンに「異物混入」させるくらいがせめてもの反抗であった。今ならやりそうだが、動画などはない(笑)

で、その熱心な指導は世間には広まらなかったのではあるが、ある程度の範囲でそれなりに物議をかましていたので、もうちょっと平和なやつをということで監督から指名をうけた。
 実はその役職は次世代の幹部の仕事であり、だいたいその役をしたものが次の代の主将になるのが通例であった。多少、意識した。(いやけっこうかな 笑)

・・・でそれで主将になったのかというと、「寮とグラウンドの責任者」というどうも外では通りの悪い名称でありながら、野球部員が寮とグラウンド以外であとどこに責任があんのよ?というくらい範囲の広い役職を任された

なんのことはない用務員の親方みたいなものであった。

今の歳になると「そういうのがカッコいい」なんて思えるが、花も実もある17歳である・・・
せめて副キャプテンくらいの名前にしてくれれば地元でもカッコつけられたのだが・・・

え~と、それはさておき(汗)

その指導熱心な先輩は確かにトンデモナイであったが、じゃあそれを傍観している先輩はどうなんだ?
ということであった。中にはその鬼先輩と仲が悪いらしく
「あいつはサイテーだよな~」などと言って1年生に「いい先輩ヅラ」する人も沢山いるのだが、肝心な説教のときにちっとも助けてくれないのである

確かに、最初は「この人は優しくていい人だな~」などと思ったものだが、よく考えたらその人は特に何もしてなくて・・というより優しい顔してるだけで結構無茶な注文をしたりするし優しく見えたのはその鬼先輩との対比によるところが大きかったというだけなのである。

さて、そのあと説教隊長になった私はナカナカ大変であった。

なにせ相手は高校1年生であるが腕に覚えのある選りすぐりの連中で中にはのちにプロに行くようなのもいるわけである。とにかくデカイ!180センチ以上が7人くらいいて中に190もいる・・・私162・・・

したがって立って説教せず私は常に座って説教をする戦法をとった。当然、手は届かない(笑)
だから口先説教である。それでもそれなりの緊迫した雰囲気をつくるのはまぁまぁ上手かったかもしれない。

その仕事をしていると先輩から「おいアイツ生意気だからやっておけ」などと言って来たり同級生からも「アイツやっといて(説教しといて)」などと言われることもあり「そんなの自分で言ってくれよ」などと思ったものであった。

そんな経験などからどうも私はこの手の話題の一方的な議論を観ていると、
「自分は嫌われたくない」という性分からくるものが教育熱心な指導者への負担となったり、もしくは行き過ぎた体罰指導を容認する結果になってしまっている側面はあるまいか?と感じてしまうのである。

行き過ぎた指導になってしまった指導者は最初は違和感があったとしてもだんだんと、「俺がやってやってる」という意識になり「俺がやらなきゃ誰がやる」となってしまいがちだと思う。


実はこれを書いていながら、最近の私もこの心配があるな~と思っている。


何をいいたかったのだろうか・・・

体罰は確かにいけないのだけども、じゃあやってない人は全く無関係なのか?

その力に頼った部分はなかったのであろうか、ちょっとそんな視点で考えてみてほしいな~と思ってみたのでした。

皆が、人任せではなく、きっちり自分も嫌われ役をやる覚悟で臨めば、何も特定の人が特別な指導をしなくても秩序が守られるのではないだろうか。

私は基本的に暴力反対である。

かつて、中学野球部の手伝いのコーチをしていたころ、中学生選手の態度にモーレツに腹が立ち、殴りたくなる時があった。肝心の監督は職員室から出てこない。それも悔しさ倍増の要因であった。
「俺はいったいなんなんだ、もう、こいつぶん殴って辞めよう。」思ったものの、

「ちょっと待てよ、これまで学んできた勉強をコイツを殴ってパーにしていいのだろうか?その価値がある選手なのだろうか?」などと思いついたおかげで深呼吸してその場を収めた。

その場は収めたもののやっぱり腹が立って収まらない。
よし、私は妙案を思いついた

この怒りのエネルギーで私が走ろう!この怒りを持ってしたら2時間くらい平気で走っても収まらなそうだ。なんなら深夜までなるかもしれない」

私は走りだした。基本的に持久力はないし走ることはキライであった。

しかし、今ならモーレツな怒りが俺を支えている・・・

怒りが収まるのが先か、俺が倒れるか勝負だ!

などと、ちょっとスポ根アニメ的な勢いであった・・・




20分後・・・




怒りが収まってしまった・・・というよりバテてしまった。



私の怒りなんて所詮20分走って終わりの代物であった・・・情けない


以来、頭に来たら走るように心がけた・・・


これならば怒れば怒るほど体力もつくし誰も傷つけないし、怒るのを恐れずに指導に熱を入れることができる!我ながらいいなこのアイディアは・・・


俺は天才じゃないか

などとと喜んでいたら・・





走るのがイヤだからだんだんと怒らなくなってしまった・・・・


それくらい走るのがキライなのであった。


これはいい話なのだろうか・・・・



ターミネーター監督、ノボル先生、 O山監督!

アタマに来たときは選手走らせないで自分が走りましょう!

健康によいです(笑)