kokokaramakuruの日記

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歴史に学ぶ

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藤原道長の句

平安中期にぶっちぎりの支配力をもった藤原道長の句

 

今の時代にこんなことをツイッターでつぶやいたらどういうことになるのか・・・

トランプの暴言どころじゃないぞ。

 

なんて想像しただけでも楽しい(笑)

 

そう、いま私がはまっている高校講座の「日本史」の番組にて・・・

 

いや~、奈良時代から平安時代なんて、

テストのための勉強としてやっていた頃は、

「なんだよも~めんどくせ~な、

 こんなにコロコロと場所を変えんなよ。何がちがうんだよも~」

 

なんて思っておりましたが、

しかも当時、

神奈川県で学んでいる身としては近畿圏の中での位置関係もわかりませんし・・・

奈良出身の学生に聞いたら、

この地理感覚を持っているのは受験勉強には

けっこうなアドバンテージだったそうだが、

そらそうだと思う。イメージが湧くもんな。

(まぁ、その時代の問題だけだど)

 

それにしても、

あるていど政治なんかもわかってきた脳ミソで、

この頃のことを勝手に夢想すると本当におもしろい。

 

あとは、調子に乗るとやられるというのも教訓になるというか・・・

 

あと、たまに昔の重要資料になる日記みたいなものが出てくるが・・・

近くにいた人(弟子とか)が、当時のその人を記録したものとか・・・

 

「ホントにそんなつもりで書いたのかな?」とか

「日記にそんなこと書くか?」とか

「その字は、ほんとにそういうことなのか?ホントに読めてるの?」

なんて思ったりして楽しむ(笑)

 

そして、歴史番組によくあるパターンの

実は歴史上は悪人みたいな評価になっているが、

新しく出てきた資料によれば、

実は裏の顔はこんな風に優しくて繊細な男であった・・・

 

みたいな構成で、

「あ~実はいいやつだったんだ~」なんてなるのがあるが・・・

 

それをマネして私も日記をしたためてみたりするが、

 

「果たしてそんな風にいいように解釈してくれるものであろうか?」

 

という不安は拭いきれない。

 

間違って解釈されないように書こうか・・・なんて意識も入ってくる。

 

あと、

「こんな恥ずかしいこと書けない」なんてのもある。

(ギャンブルで負けた金額とか)

 

そう思うと、

「日記ってホントに真実か?自分の日記だって盛ってしまうぞ」

なんて思ってしまうが皆さんどう?

日記って読まれるつもりで書いてます?

読まれないつもりで書いてます?

 

純粋なプライベート日記なんてありえるのかな?

そうならば、死ぬ前に絶対に自分で燃やさなきゃマズイでしょ(笑)

 

なんてなことまで考える。

 

それから、

これが歴史を学ぶ大きな意義の一つと思うが

そもそも歴史は

「勝った方(生き残った方)が作っている」

これを肚で分っておくこと

人生において大事なのではないかと思う。

 

そう、だから死にたくなるほど嫌がらせやイジメを受けたりして、

アイツのせいになるように死んでやる!

なんて発想が出てきた時は

逆の発想に切り替えなければいけない。

 

つまり、

 

「絶対にアイツより長生きしてやる!」

 

と思わねば、

自分のことを勝手に解釈されてしまうということだ。

そもそも自分を苛めた相手は、

それをストレス発散として、

ますます健康になっている恐れもある。

 

むしろ憎しみの相手が出現したら、

その日から健康に目覚めなければいけない。

 

間違っても、

ヤケクソで自分のカラダに悪いことをしたりしてはいけない。

 

ましてや死んでは絶対にいけない。

 

対人関係で死にたくなったらば

「ちょっと待て、

なんであんなクソみたいなアイツが生きてるのに

俺が死ななきゃいけないんだ!」

とガッツを湧かさなければいけない。

 

私はこの言葉を自分自身にかけ続けてきた。

(※他人に聞こえるように言ってはいけません。)

 

これは私が中学野球部時代に悟った境地である。

 

あまりに監督が理不尽に苛めてくれるもので、

「死んでやろうか」などと思ったりしたが、

「果たしてあの理不尽監督が反省したりするものだろうか?」

などとシュミレーションしてみた・・・

 

俺がいい文章を書いて残せば・・・などと思ってみたが、

 

どう考えても反省するわけがない。

 

あれだけミスを選手のせいにする監督が、

「あ~スマン!俺のせいだ~」

などというわけがない!これじゃ死に損ではないか!

という結論に至った。

 

生きて証明せねばイカ

という気持ちになり、

その『拗らせ中2病』で現在に至っている。

 

ホントに中2の時の話だし・・・(泣)

 

そういう意味では怨師には感謝である。

これ、なまじっか反省したり悲壮感が出る先生だったら危なかった。

 

しかも今じゃ、

呑気に陶芸なんぞやってる上に健康に気を使っているみたいだし、

ホントにこっちは死ななくてよかった。

意地でもあの先生より長生きせねばイカン。

おそらく、あの先生は相当に長生きする気がする。

 

 

この時の教訓はのちの人生でもかなり活かされ、

酷い人にあっても、

「絶対にコイツより長生きしてやる、

 いい人だったとは言わせねえぞ!この人の歴史的評価は俺が作る」

と思うようにしている(笑)

 

「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった。」正岡子規