朝日新聞より
「会議とはものごとを決める場ではない」
あれ?そうなの?
と思って読んでみたら、たしかにそうだよなと。
『会議が長くなって困るという人がいるが、会議は異なる「声」や視点を提示し共有しあう機会だから長いほどいい』
そもそも会議って、「皆の本音や事情はどうかしら?」ということを出し合い『問題を解決しよう』、『もしくはアイディアを出そう』という営みだとすれば、色々な意見が出たほうがいいわけで、それは結果として長くなる。
元来のワタシは、会議などで意見を持つ方だったのだけども、「なんだよメンドクセ~ナ、長くなるじゃね~か」という視線を感じて、「あ~そうなのか」と引くことも覚えたというか、「自分がわかってないだけかもしれないな」とか、「自分の意見なんぞで、まともな人を煩わせてはいけない」などと思っているうちに思考停止にしている自分がいる。
でも、これって本末転倒だよな・・・なんて思いもある。
『一応、会議をやりました』が大切な場合があることも重々承知。
それもプロレスか(笑)
ただ、それってホントに意見か?というような、
「一見すると意見のように見えるが実は役に立たない正論勝ち誇り」の人もいる。
正論でいけるならそもそもこの会議しなくていいのよ。と
こういうので満たされた会議が「意味のない長さ」と思うのだけどどうだろう。
そんなことを思っていたらこんな言葉もあった。
「人は死んでしまえばそれまでだとか、恋愛は一時の幻影で必ず醒めるとか、そんな『あたりまえすぎる』ことを言って何になるのか」
さすが、坂口安吾、競輪界でもその名を知られる文豪(笑)
こういうので埋まった会議は「あ~なげえ~」となる気がする。
だってわかりきっているのだもの。
会議をどうすれば充実させられるか?というのは、それこそ会社だけに限らず重要なテーマで多くの人が試行錯誤している。
会議論ってけっこう面白い。
話しは少し変わるが
私は「話が長い」と言われることが多々あり、いつも反省する。
ただこの「話が長い」は相対的なものというか、相手との関係性の中で楽しい話であっという間に3時間たった。なんて場合だってあるだろうからナカナカ難しい。
こちらが面白いつもりで話していても相手には迷惑ということもあるのだろうなと。
私の場合、上の人に長く話をしてもらえると嬉しいという思いがありすぎて、その価値観で接してしまうのが良くない。
自分の拙い話から広げてもらえたりすると、とても自信がついたりする。
特に弱気だったりしたときに、「そんなの大したことない、以上」みたいな感じでバッサリいかれたりするとなかなかキツイけど、気持ちを拾ってもらえて長話をしてくれて救われた経験も多くある。
いや~難しいな~
結論としては、自分の話を長く聞きたいと思ってもらえるような人になれってことなのかな。