約20年前に買った『プレイボーイの人生相談』という本をパラパラと読んでいたら、作家の野坂昭如のコーナーが目にとまった。
買った当時はピンと来なかったのだけど、なんだか感じるものがあった。
それは、こんな読者からの相談
「どうしても好きではないものを後回しにしてしまい、切羽詰ってから慌てることが多いのだけどもその癖をどうしたらいいのか?」
という内容で、
その答えが
「自分もまったく同じだ、そもそもいやなことから先に片づけるなど変人の部類、やりたくないことは人に押し付ける、ズルをする、これが正常だ。自分はそれを貫き通して今日の自分になった。あなたも曲げずに好きなことだけやれ。
しかし、これは、嫌なことをすすんで手がけるよりタフネスを必要とするぞ」
かつてのワタシは、この作家の文体がいまいち好きになれず、この人のページをあんまり読んでなかったのだが、なんとなくこれを読んでいたら思い当たるフシもある。
色々な解釈はあると思うが、現在のワタシが思った解釈。
とりあえず、理想は「自分のやりたいことをやって食っていけたらな~」というのはあるし、世の中「自分のやりたいことをやれ」的な言説は沢山あるし、それを言っているほうがいい人になれる気もする。
ただ、一方で、「自分のやりたいことだけでやっていけるほど世の中甘くない」というセリフもやっぱり真なりな気もする。
ところで、ほんとに
やりたいことをやり続けることに人は耐えられるのだろうか?
やりたくないことをやらねばならない時には、「何かを得られる」ことが多い。
そりゃそうだ、嫌だけどやらなきゃいけないものということは「勉強」「練習」「仕事」だったり「頼まれごと」だったりとあるけど「得るものがある」もしくは「失わないため」だったりする。
理由がちゃんとあるケースが多い。監督が怖いなんてのもそうかもしれない。
あと、ゴールがあったりけじめがあったりする。
イヤイヤ仕事をしている人は、仕事が終わると「あ~終わった~酒飲むぞ~」とか成し遂げた感じがするかもしれないし、土日に思い切り遊んでやるぞ~!などと思えるかも。
それから「これだけ嫌なことをやっているのだからもっと給料よこせ」などと交渉する元気も出るかもしれない。
嫌なことをやっている時は「努力感」がある。
ワタシの父は「嫌でもやるのが仕事です」とよく言っていた。
それ言われちゃうと思うともう何も言えない。
それでも「嫌な仕事だったな~」と愚痴りながら晩酌している姿はそれはそれで楽しそうだったような気もする。酒を飲む免罪符にもなっていたようだ。
少しは楽しいことだってあったんじゃないのか?と思われるフシもあるのだが、それをこちらから言うワケにはいかない。
そんな中で育ったワタシは「好きなことをやっている」というのは、
ある種の「罪悪感」も発生する。
また「好きなこと」に関してはなぜそれが好きなのか?
人に説明できるような明確な理由がない。いやもちろん理屈をつけられるだろうけど、それは後付けであって「なんだかわからないけどやってしまう」ものなのだと思う。
ワタシの場合は学生や選手と絡むことはおそらく「好きなこと」なのだと思う。
だから、時間などあまり気にしないでやってしまうのだが、嫌いというか、仕事(いやだけどやらなきゃいけないから)としてやっている人にこれを求めたら「ブラック」ということになる。だからスポーツはブラックになりやすいのはよくわかる。
それから「好きなこと」としてやっているので、「休みくれ」とか「もうちょい給料をあげろ」とか言うのはいけないような気もしてくる。
野球の指導なんかでお金を取っていいものなのか?という気がするもので結局そっち方向は断念した。
それから「好きなこと」には終わりがなくなるというのは、一見いいことのようだけど仕事としてはマイナスな場面も多い。
さらには「好きなこと」を仕事にしている場合は、批判された時や失敗したときに、けっこう傷つく。
これがイヤイヤなことだと「俺だって好きでやってんじゃね~わ」と心の中で言い訳できて潰れない。人のせいにすることもできる。
「好きなこと」だと全責任が自分にある気がしてくる。
そうなると、好きなことは仕事にしないことが、仕事を継続するにはコツかもしれない。
なるほど、好きなことをやるのはタフネスがいる。
ワタシは授業で学生を喜ばせるのが好きだ。
というわけで、教科書だけでなく色々なトークを交えて少しでも飽きないように・・・
などと思って学生の感想から話を広げたり、こりゃちょっと気が弱いかな?という学生を励ましたりする。
授業アンケートの結果がきた。
「シラバス(授業計画)と違う」
「一部の学生の意見に流され過ぎ」
「話が長い」
いや、もちろん肯定的な意見もいただいてますので心配しすぎないでください。
いや、そこ工夫したとこというか、学生の意見に対応したつもりだったのに・・・
さぼった結果なら、努力したらいいけど、「努力した部分」だからなおキツイ・・・
多少、前向きに捉えれば、なにかの違和感(違い)があったともいえるから、なにかしたといえばしたともいえる。
誰かに言われたではなく、自分で好きでやったこと(工夫したこと)だけになかなかツライ。
淡々と計画通りに授業を進めている人の偉大さがわかる。
さぞかしイヤイヤやっていることであろう。
今度こそ淡々とやってやる・・・
と、決意するのも毎年恒例となっている。
好きなことだからこそ苦しみがある。
・・・って、カッコつけて励ましてみる。
「俺は俺の苦痛を信ずる。如何なる論理も思想も信ずるに足らぬ。ただこの苦痛のみが人間を再建するのだ」
これは北條民雄さんの随筆「断想」の最後の一文。
この人の壮絶とはレベルが違うけど、この言葉に出会えてよかったです。
この人に比べりゃ屁でもない。