9月1日
東京ドームで行われていた、「都市対抗野球大会」の決勝戦が行われホンダ(埼玉県狭山市)がトヨタ自動車(愛知県豊田市)を4-2で下して優勝した
先発マウンドに上がったのは筑川利希也投手だった!(写真は大学卒業時 右から二人目)
http://mainichi.jp/enta/sports/baseball/amateur/09kurojishi/etc/shuyaku/24/
彼との出会いは、H12年に遡る。
彼はその年、春のセンバツ甲子園に出場を決めていた東海大相模高校のエースだった。
人一倍向上心の強い彼は、高校生2年生の12月から一人で東海大学スポーツ医科学研究所http://www.sms.u-tokai.ac.jp/まで足を運び、低圧室で行う高地トレーニング、ならびにウエイトトレーニングを行った。当時、寺尾教授(http://www.sms.u-tokai.ac.jp/intro/profile.html)にお世話になっていた私は彼のトレーニングをサポートさせてもらっていた。
その時の印象は「飾り気がなく、ずいぶん物静かで落ち着いた子だな」と感じた。
ハードなトレーニングをこなし、「ちょっと帰りにメシでも行こうか?」と寮への帰り道で誘った私に対して、「すいません、すぐ帰って練習します。絶対に負けられないんです」と言った彼のセリフは「こいつホントに高校生か?ちょっと病んでるんじゃないか?」と心配したほどだ。
柔軟性に優れていることはよく分かったが、特別大きいわけではないし、苦戦するだろうなというのが私の冷静な予想だった。この予想は見事に外れた(私の予想はホントに当たらん)
「これだけ頑張っているんだから、1回くらいは勝たせてあげたいな」という私の気持ちとは裏腹に、なんとセンバツ甲子園で優勝投手になってしまったのである。(しかも相手はその夏には優勝する智弁和歌山だった)
トップレベルの大学生の中でも抜けていた投球術は即戦力となった。しかも、彼の球速は150キロを超えていた。天性のバネと柔軟性、それに加えて彼のコツコツと継続してきたトレーニングが身を結んでいた。
しかし、それは両刃の剣であった。度重なる連投で肘がパンクしてしまったのである。
大学時代に2回の手術、そしてリハビリ。
肘の曲げ伸ばしのリハビリをサポートさせてもらっていた私もつらいものがあった。大学の後輩は彼の黙々と走っている姿しか知らない状態で、「筑川さんて昔は凄かったらしいよ」と話をされるような状態だった。
「腐らないことがプライド」
彼は多くを語らないタイプだ。ちょっと前にベストセラーになった小説「バッテリー」の主人公「原田匠」に近いタイプだ。「可愛くないやっちゃ」と思うこともしばしばだが、彼の野球への姿勢をみれば、かつての自分とダブリどうにも嫌いにはなれない。
「1年はリハビリに充てればいい」そんな時間をもらって彼は社会人野球へ進んだ!
そして彼はついに復活した!
今朝の彼からのメール、
「振り返ってみるとたくさんの人たちに支えられてここまできたんだって感じています。本当にありがとうございました」
これからの彼の活躍が楽しみだ!
私は、関西医療大学で、こんな熱い気持ちの野球人をサポートできる学生を育てたいと思っているが最近、少々空回りしているようだ。つい私の価値観を押し付け気味になってしまう自分に嫌気が差していた。
しかし、筑川選手の復活ニュースでまた元気がでたありがとう!