いまや、大阪の競輪選手のトレーナーとして頑張っているPTのN井さんからメールが来た。
「この記事って、先生の言っていたやつそのままではないかとビックリしました?」
と、その記事を添付して携帯に送ってくれた・・・
・・・しかし、ワタシのガラケーでは観る事が出来なかった
終了
・・・では、意味が無いので、ここに添付する。
そうです、ワタシとしては野球の卒業生あたりからコメント殺到かと思った力作だったのに、金沢の吹奏楽部のキヨハラさんからのみの反応だったあのネタでございます。
2017年10月26日の記事
こうして記事を見て初めて信じてもらえるという・・・
それにしても、よくこんな記事あったな。
N井くんもよくこんなの拾ってきたな。
ワタシもこういうのを引用しながら説明すれば、もうちょい理解してもらえるのかもしれないけど・・・・(笑)
実はS高校のO部長からも「あのネタすごいですね~」と電話をいただいていたのだが、選手には伝わらない(笑)
ただただ部長の球が速くなるという・・・
このO山部長はナカナカ面白い人でして、内容で聞けるという・・・
「よく、何を言うかより、誰が言うかが大切」
・・・という
精神的というか人情的にはそうであろう・・・
自分で言う人のいう事は信じてもらいにくい(笑)
自分はロクにやらなかったくせに、下にはやれというのは無理がある。
なんてのはあります。
ただ、技術的な話や、創造的な活動
をするためにはこれはむしろ害だと思う。
実績をあげた人のいう事を鵜呑みにするだけで判断している人が新しいことをできるワケない。
「誰が言ったかではなく、何を言ったか?」に対して落ち着いて価値を判断できなければダメだと思う。
言う事は立派だけど、なんで何日もサボってるアイツが言ってんだ?
なんてのは一番ハラタツ状況ですが、そこをグッとこらえて
「言ってる内容はもっともだ」と判断できる胆力も必要か・・・
それが、『課題の分離』かもしれない。
ホントに根性要りますけどね。
ようは、悪いことをした人の言っていることの全てが間違っているわけではない・・・、
(そもそも善悪も状況によって変わるので・・・とか言い出すと違う話になるからここでは単純に)
・・・というより、核心をついていることも多い。
まぁ、有名人が言ったからとかで左右される世の中でそれが要するに
「誰が言ったか?」なのだけど、それって
「自分では判断基準を持っていないです」ということの表れである。
これまでの野球界なんてその最たるもんで、
「ノムラ監督が言ったから、オチアイ監督が言ったから」なんてのを重宝しているがもう時代遅れである。
考えたら、オチアイ監督の選手時代の打撃は確かにすごいけど、打てなかった選手を打てるようにしたことはない。
あれだけ足も肩も凄かったヒデノリ選手を結局打てるようにはできていない。
アマチュア球界はもっとひどい。
ようするにフィクションである。
若者のほうがそのあたりはよっぽど賢明で、
そんなの気にしてない価値観でノビノビやっている。
よく発明家などは「子どもの発言からヒントを得た」などという事があるが、
そこを拾えるのは「自分で判断する」という基準を持っているからそういうことができる。
それを「誰が言ったか?」で判断していると
「子どもの言うことだから」で消してしまう。
・・・まぁ、結局は自分で試行錯誤していないと、価値なんて分からないのですけども。
そう思うと、感動できる人って自分で動いている人という言い方もあるかもしれませんね。
こんなことを考えていてふと思い出した物語が
「裸の王様」
この物語を考えたアンデルセンってホントにすげ~な~
ちなみに、「王様は裸だ!」と叫んだのが子どもということになっているが、原作では黒人だったというのもこれまたなんとも・・・
久しぶりに、調べてみると、「これは馬鹿には見えない布です」って言われて皆がそれに合わせてるって・・・
これ・・・ホントにゾッとする話だ・・・
そう思うと、組員たちがワタシを見る目もそう見えてくる・・・
目を隠している大将さん
「組長、あれ裸だぞ・・・でも言いにくいな・・・」
カメラを渡しておいたらこんな写真を撮っていたから「なんのこっちゃ?」
と思っていたら、そういうメッセージだったんだな・・・
「見えてないフリして付き合ってあげてますよ」と・・・
深いことするな~
「あんた裸だよ」と言ってくれる人がいないのが一番の孤独か・・・
それにしても、フォームの話だったところから凄い飛躍だな・・・
要するに、ワタシにとってのフォーム研究というのは怨念の塊なのであります。
爽やかなスポーツではありませんもので(笑)